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ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

良い文章っていうのはいったいなんでしょうね?

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photo by courosa

良い文章とはなにか?

良い文章を書くコツやテクニックを教えてくれる本やスクールなんかがあるということは、世の皆様は良い文章を書きたがっているということなんでしょう。
よく考えて見ると「良い文章」というのは一体何なのかよくわからない。



少し前に「美しい日本語」だったり「声に出して読みたい日本語」だったりが流行った。
そこで感じたものは「美しい文章」ということだったのだが「美しい=良い文章」とは必ずしもならない気がする。

もちろん文法が間違っているとか「てにをは」が間違っているとかでは話にならない。
だけれど正しい日本語を使うことが必ずしも良い文章につながるとは思えないのだ。
良い文章とは読み手の心になんらかの爪痕を残すものではなかろうか?


文章にはTPOがある。
例えば、新聞記者が情感をたっぷり込めたニュース記事を書いてしまったらたまったもんじゃない。
出来る限り感情は押し殺して事実だけを伝えるのがニュース記事に求められている文章であって、それは他の文章とはベクトルが全く違う。

同じように日記にあうような文体もあれば読書感想文に沿う書き方だってあるだろう。
一概に「良い文章」というのは難しい。


今回テーマにしたいのは随筆やエッセイ、コラムといった文章に限定する。
こういった文章は書き手の人格が色濃く出たほうが面白い場合が多い。
有名なエッセイストの文章を思い浮かべてもらえばわかると思うが、少し読めば「これはあの人が書いたものかな?」とわかるような文章が書ければかなりのものだと思う。


文章に個性が現れているからそれを読者が読み取って書き手が誰なのかがわかる。
個性的な文章というのは言い換えれば「クセ」がある文章ということになる。

この「クセ」とはどこからくるのか?
正しい日本語と言うのは逆に言えば無個性になりがちだ。
繰り返し同じ助詞を使ってはいけないというルールはあるけれどそれは絶対ではない。
あえてそうやって印象付けるテクニックだってある。

セオリーに反して使うから印象に残る。
そういったイレギュラーを限度を超えて乱用したら日本語がヘタクソという評価になってしまうのだけれど、いい塩梅でわざとセオリーから崩すことが文章の「味」になったりする。

語尾の使い方にだって個性が出る。
使う呼称だって選択によってはガラッと印象が変わる。

そういう微に入り細に入り、文章全体のバランスを取りながらそこに自分らしさの味付けができることが「良い文章」なんだと思っている。


正しい日本語の使い方を知っているから、適切な崩しができるのであって、基本を知らないでいきなり個性的な文章を書こうと思ってもおそらく上手くいかない。


ピカソは素人から見るとヘンテコリンな絵を書いているように見えるが、彼が絵画の基礎であるデッサンを、死ぬほど練習していたからあの絵が描けていることを忘れてはいけない。

文章も基本が大事なのは言うまでもない。
その日本語を何から学ぶのかということになるのだが、ありふれた答えになるがそれは上手い文章をたくさん読むしか無い。


好きな小説家の本を、文章を盗むような気持ちで読み返してみればいい。
そういう視点で読み返すことでその作家が使う文章のテクニックがちょっとづつ見えてくる。
練習としてその作家になりきってナニかを書いてみるのもいいかもしれない。
(ちなみに俺は椎名誠の真似をして短編SFを書いたことがある)


ギターを始めるときに好きなアーティストのコピーから始めるのは王道だと思うけれど文章になるとあまりそういう話を聞かない。
真似をすることで学べることは多い。
興味があったら是非チャレンジしていただきたい。