昔からずっと考えていたことがある。
思考の言語化のことである。
こんな書き方をしてもピンと来ないと思うので少々説明させていただきたい。
私の記憶で最も古いのは3才か4才頃に当時住んでいた家の裏庭に敷かれていたござに座って絵本を読んでいる映像が浮かぶ。
絵本は確か『ぐりとぐら』だったと思う。
裏庭には父が日曜大工で作った池が有り、金魚がかなりの数泳いでいた。その隣には同じく日曜大工で作った大型の鳥小屋があって沢山の十姉妹が飼われていた。
我が家と裏庭で隣接しているのが工場だったせいか相当に高いブロック塀がそびえ立っておりそれがなんだか子供心に怖かった憶えがある。
そのブロック塀の下から3段目あたりは向こう側が覗けるような飾りになっていてちょくちょく向こうの工場を覗いたりしていた。
覗いてもそこは工場の裏側でスレートづくりの外壁が見えるだけで人の姿はおろかこの工場が何を作っていたのか今も知らない。
その日はござに座って『ぐりとぐら』を読んでいたのだが飾りのブロックから大きな蛇がこちらに入ってこようとしていた。
当時の私はまさに『蛇に睨まれたカエル』状態で身動きが取れずにいた事をはっきり覚えている。
その蛇は私に構うこと無く、するすると全身を表し池の水面でその体をうねらせた。
声も出せずにいた私はこのままだと金魚が食べられてしまうと心配しているが、蛇は水面をスイスイと泳ぎ切って隣の鳥小屋の足に絡みついた。
あっという間に鳥小屋の金網の隙間から忍び込んだ蛇の姿が見えなくなってようやく私の体は動くようになった。
鳥小屋の中を確認したかったが、好奇心よりも恐怖が勝り、私は母を呼びに行った。
呼ばれた母は中にいる蛇を確認したらしく仕事中の父を呼びに行った。
私は鳥小屋から一定の距離を保ったままその一部始終を見ていた。
呼ばれた父は躊躇なく鳥小屋に手を突っ込んで大きな蛇を捕まえた。
その後蛇がどうなったか記憶が無い。
この文章にした一連のシーンを今でも克明に思い出すことができる。
逆に言えばこの家にまつわる思い出はこの事くらいで他は殆ど覚えていない。
もっと短い断片的な思い出はあるにせよ今回の蛇の話のようなシュールな短編小説風の思い出は他に無い。
ここまで私の最も古い記憶の話しを読んでいただいた訳だがようやく本題に入る。
上記の話は記憶を呼び戻して文章化する作業を経ているが実はそこに違和感を覚えている。
私の記憶はことごとく既に文章化されている。
私の記憶は静止画とその時の感情が言語化されて脳に格納されているらしい。
近い記憶は動画で記憶しているものも多いが、古い記憶はそのほとんどが静止画で、それを補完する形で感情や感覚が文章化され付随している。
つまり感情が言語化されているのである。
蛇を見て感じた思いが「怖かった」と文章化され静止画に注意書きのように添付されている。
感情は喜怒哀楽に表わされるように文章化できる。
当たり前だが我々は今沸き起こっている感情の揺らぎを一番近いと思われる言葉に置き換えることで再度自ら確認している。
蛇を見た時に起こる感情を『恐怖』と表現することで記憶の格納場にしまい込む。
仮に言葉が無かったらどうだったのか。
猿から進化した人類はやがて言葉を習得し今に至るが、言語が無かった時代の我々は世界をどうやって感じていたのか。喜怒哀楽という言葉が無くてもそれに近い感情はあったに違いない。それらをどうやって処理していたのか。
何かを考えるとき頭の内では言葉を使って思考する。
例えば今夜の夕食を何にするかを考えるときにでも言語は使われている。
仮に言語を使わないで思考しようとしても私にはできない。
言語がなければ何も考えられないことに恐怖さえ覚える。
言葉が無かったら私は白痴になってしまう。
そんなことを昔から考えていた。
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