ネットの海の渚にて

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作品と作者は切り離して評価することはできるのかって話

佐村河内氏の一件で思ったことを書く。

佐村河内守 4声ポリフォニー合唱曲 REQUIEM“HIROSHIMA” CD付

佐村河内守 4声ポリフォニー合唱曲 REQUIEM“HIROSHIMA” CD付

ミィア猫さん (id:meerkat00)が書かれたこの記事がとても良くまとめられているので事件の概要はこちらで確認していただきたい。
耳が聴こえなくても作曲はできるし、譜面は単なる設計図ではない。 - 夜の庭から

ミィア猫さんは聴覚障害のある状態でも音楽的理論や技術が聴覚を失う前に確立されていれば作曲は可能であると主張されている。
俺もその見立ては正しいと思う。

俺は音楽の専門的知識もないし楽譜も読めるには読めるが初見でスラスラと読めるほどではない。
まあ趣味の範囲だと思ってくれればいい。


今回俺が書きたいのは佐村河内氏の功罪を問いたいのでは無い。
作者と作品の関係だ。


一連の報道を見ての俺の所感だ。
今回の事件は聾者である佐村河内氏が自身の背景にあるストーリーを利用して商業的に成功を収めたということだ。
耳の聞こえない作曲者が困難に打ち勝ちながら人々を感動させる楽曲を完成させた。
事の顛末が暴露される以前、ドキュメンタリー等で紹介された彼の姿を憶えている人も多いだろう。
彼の曲が売れたのは彼のバックストーリーによるものが多いと感じる。
もちろん新垣隆氏が作曲した交響曲自体が素晴らしいクオリティだったことは前提としてある。

しかしながらこの曲をそれこそ新垣隆名義で売りだしたとしたらどうだったのか。
もちろんこの手の話題で「if」は御法度だ。
確認が出来ないのだから想像で語るしか無い。
だからあえて想像で語る。

俺はもし新垣隆名義で『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を販売したとしたらここまで売れなかったと思うし話題にもならなかったと想像する。
ではなぜ佐村河内名義では18万枚も売れたのか。

繰り返すがこれは俺の想像だ。
売れた原因は彼の持つ障害であり彼のキャラクターだ。
あの風貌、聾者、被曝二世。

彼は自分自身のセルフプロデュースに優れた能力を有し、さらには商売に優れた嗅覚を持っていたのだと思う。
新垣隆氏は非凡な作曲能力を持ってはいたがそれを売る能力は持ち合わせていなかったのではないか。
アーティストに自分を売り出す能力なんてものは本来必要ない。優れた作品を作り出す能力さえあればそれでいいはずだ。だからこそ才能を発掘して売り出すプロデューサー業が存在するわけだ。

そして作者に「清廉潔白な人格者」を期待するのはお門違いだと俺は考えている。


ここで作者と作品の話に戻る。
かなり昔の話になるので若い方は知らないかもしれない。
「一杯のかけそば」という短編が一時期話題になった。
内容は割愛するが当時、学校の授業なんかにも使われるほど評価された作品だ。

ところがある週刊誌に作者の人となりをすっぱ抜かれることになる。
虚実は知らないがその報道が出た直後から手のひらを返したように作品まで糾弾されるようになった。過剰反応を見せた一部では禁書のような扱いすら受けた。
この時俺はおそらく中学生だったと思うが不満を抱いていた。

作品が素晴らしいのになぜそれを書いた人間の評判によって作品の評価まで左右されるのか、それに対して怒りにも似た感情を抱いていたことを思い出す。

文豪と呼ばれる人々がいるが彼らだって相当なものだ。
太宰なんかははっきり言って相当のダメ人間なのは今更説明の必要も無い。

作者の人間性がおかしかったからといって作品の評価を下げるのはいただけない。俺は今でもそう思っているがなかなか世間はそう簡単でもないらしい。

アーティストの創りだした作品はあくまでも作品のみがその優劣の判断材料にすべきであるのに必ずしもそうなっていない現実がある。
作品と作者がセットになって評価されがちだ。いやむしろそのケースがほとんどといってもいい。

小学生が大人顔負けの小説を書く。それが話題になって書籍化される。
この場合の枕詞は「小学生が書いた」となる。
書店の店頭に並んでしまえば他の作者同様プロの世界での評価になるはずであるが、そこに小学生が書いたという作者の付加価値が加味されてしまう。

作者と作品を切り離すのは確かに理想論かも知れない。
好きな作品があればその作者のバックボーンを知りたくなるのは自然な気持ちだし俺もそう思う。
そのかわり俺が自分に課しているルールがある。
作者の人となりは作品の評価とは完全に切り離す。


佐村河内氏の一件では「作品は素晴らしい」という風潮があるにはある。
それでも作品の出自が問題視されてしまうのは間違いない。
つまり作品自体に「ケチ」がついてしまった。
今後この作品はいわくつきとして残っていくことになってしまった。


作品の優劣は作者の好悪に左右されていないか?
あるときには作者の人格や背景が付加価値として利用され、またある時は作品そのものを酷評するための材料にされてしまう。

そもそも作品はその生みの親に紐付けられて常に同時に評価されるべきなのか?
純粋に作品そのものだけを評価することは不可能なのか?

皆さんの意見を聞いてみたいと思っています。

堕ちた“現代のベートーベン” 「佐村河内守事件」全真相【文春e-Books】

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