ネットの海の渚にて

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スポーツにおける男女区分の難しさが超難問過ぎていくら考えても答えが出ない

この記事を読んだ。

「男に似た選手と競うのは難しい」キャスター・セメンヤを批判した女子選手に非難集中
セメンヤは2009年の世界選手権で優勝した時、性別を偽っているのではないかという疑惑の目を向けられてきた。セメンヤは、医学的にはアンドロゲン過剰症と呼ばれる男性ホルモンの一種「テストステロン」のレベルが高く、一般女性の3倍あることが判明してから、注目と批判にさらされ続けてきた。

国際陸上競技連盟(IAAF)は、アンドロゲン過剰症の選手は、自然と高レベルにあるテストステロンを抑える処置を取らない限り、競技への参加は認められないと定めた。

しかしスポーツ仲裁裁判所(CAS)はこれに同意せず、IAAFはアンドロゲン過剰症のランナーが、他選手に対して正確にどれほどアドバンテージを持っているのか証明する証拠を提出する必要がある、としている。

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陸上女子800メートル、南アフリカ代表のキャスター・セメンヤは2009年の世界陸上で金メダルを取った。
2位以下を圧倒的な差で引き離して勝ったセメンヤは、直後から性別に疑義があるとして、本人の意志とは無関係に批判や好奇の目にさらされることになる。

この出来事は今回のリオオリンピックに至っても未だ尾を引いている。
セメンヤが金メダルを獲得したあとに、同レースに出場していたイギリス代表のリンジー・シャープの発言が波紋を呼んでいるのは引用させてもらった上記の記事に詳しい。


奇しくもセメンヤの一件は「男と女」という性別を隔てるものはいったいなんなのだという、非常に困難な命題をつきつけることになった。
例えば全く同一のルールのもとで男と女で競技した場合、どうしても成績は男のほうが良くなる。
100メートルの世界記録を参考にするなら、男子の場合9秒58、女子の場合は10秒49だ。
女子の世界記録を出せる選手だったとしても男子のレースに出たら予選すら通らない。

だからこそ多くの競技は男子と女子とで分けてあるのだが、世界はそう簡単に二分できないという事情がある。

セメンヤ選手のように単純には性別を決めきれないケースというものが出てくる。
スポーツにおける性別の判断基準は時代とともに変遷していて、昔は目視による外性器の確認だったりしたのだが、それだけでは不十分であることがわかってきているし、そもそも人間の性が単純に2つにわけられないということもわかってきている。


医学的に様々なことが判明しつつある中でも、未だにスポーツ界には男女をわけないとなりたたないという事情もあり、セメンヤ選手のような慎重な判断が必要なケースに対して誰しもが納得できる明確な答えを持っていない。
その過程の中で上記の記事にあるように「テストステロンの濃度」というものをもって、一つの基準として用いようとしたのだが、スポーツ仲裁裁判所によって退けられている。

テストステロンというのは男性ホルモンの一種で、この分泌量が多ければ筋肉量も増えることからおそらく競技には有利に働く。
だからこそドーピングのように「ホルモン量が普通の選手に比べて多いのは不公平だ」という理屈なのだろうと思う。


確かにわからないではない。
セメンヤ選手の見た目は、男性のように筋骨隆々で他の選手と比べると明らかに筋肉量が違って見える。
ただその反面、スポーツというものはそういうものだろ?という思いもある。

オリンピックに出場してくる選手というのはそもそもスペシャルでスーパーな人なのではないだろうか。
おそらく子供の頃からその競技で一目置かれる存在だっただろうし、国の代表になるということは、同じ競技をしている多くの選手のなかで勝ち残ったわけだ。
これは言い方を変えれば「平均値から大きく逸脱した超人」ということになる。
ゲーム的な言い方をすると、あるパラメーターに極振りしている状態のようなものだ。





中国出身の姚明というバスケットボール選手がいる。
Yao Ming
大男だらけのNBAの中でも頭一つ飛び出る長身選手だ。
229㎝という圧倒的な身長で、アジア人でありながらNBAの歴史に名前を刻んだ名選手であることは間違いない。


リオオリンピックでも金メダルを乱獲したアメリカのマイケル・フェルプスという水泳選手がいる。
The Winner
一説によると彼は乳酸が溜まりにくいという特異な体質だそうだ。
もちろんこれが本当かどうかは分からないが、もし本当ならば競技を行う上で有利なのは間違いない。


スポーツで他を圧倒する強さを見せる選手は大抵の場合、なんらか突き抜けた部分がある。
姚明のように見た目ではっきりわかる有利な要素もあれば、フェルプスのように見た目ではわからないけれど、何らかの要素がずば抜けているということは、おそらくいろいろな競技であるのだろうと思う。


オリンピックというのが最高の競技会であるなら、そこに集まるのはやはり人智を超えた超人達だ。
平均値から大きく逸脱した超人たちが日々の研鑽で積み重ねた超絶技術で戦う場面をみて、我ら凡人は時に興奮し時に涙する。
超人たちが繰り出すパフォーマンスの源泉には努力だけではない部分。生まれ持った形質の要素は無視できない。
背が高い。手足が長い。筋肉量が多い。疲れにくい。等など……。
そういった他人より有利な形質は、大抵の場合「素質」として評価される。
なのにそれがセメンヤ選手の場合「まった」がかかる。



性別の話に戻す。
現時点では性別というものを誰もが納得する形で、男か女かに明確に二分する方法を人類は持っていない。
じゃあ面倒だから男女混合で競技をするのかと言ったら、それもまた無理な話だ。
同じルール下では女性が不利である事実は覆らない。


柔道やレスリングやボクシングは男女だけではなくて、体重でも階級をわけている。
ならば男女という分けかたではなくて、テストステロン値で分けるのが正しいのか?

テストステロン値で階級を決めると言っても、体重ならばある程度本人がコントロールできるだろうけれど、ホルモンの分泌量をコントロール可能なのかもよくわからない。

医学的に男女という2つの性では単純に分けきれない、ということがわかってきているけれど、だからといって競技における男女の区別をなくしてしまうというのは現実的ではない。
仮に男女の区別を無くしたとして、その後有利不利が発生しないような新たな分け方が私には思いつかない。


セメンヤ選手の特異な形質も生まれ持ったものだ。
オリンピアンには同じように生まれ持った形質が有利に働いて名選手になっている人は多い。
もしセメンヤ選手に「なぜ私だけ問題にされるの?」と問われたら答えに窮する。

正々堂々がスポーツマンシップの本懐だと思うが、はたしてこの問題、今の人類に解決できるのだろうか全く想像がつかない……。


最後にオリンピック憲章の中から一部を紹介して終わりにしたい。

スポーツを行うことは人権の一つである。
各個人はスポーツを行う機会を与えら
れなければならない。そのような機会
は、友情、連帯そしてフェアプレーの
精神に基づく相互理解が必須である
(中略)
オリンピック・ムーブメントに影響を及
ぼすいかなる形の差別にも反対すること。
http://www.njsf.net/national/right/olympic_charter.pdf