ネットの海の渚にて

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今年こそ意識高く生活したいけどやっぱり自分には無理だろなと思う話

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「人生とは選択の連続である」みたいなことは、もうすでに語られ尽くして手垢がいっぱいつきまくっている話題なのだけれどちょっと今回は語らせて欲しい。

朝、出かけるときに靴を右足から履くのか左足からにするのかというなんでもない選択から始まって、コンビニでどの缶コーヒーにするのか選び、昼ごはんはどこで何を食べるのか決める。
こういう些末な選択ばかりかと思えば、受験の際はどこを志望校にするかでその後の人生は大きく左右されるし、就職はさらに影響が大きい。
つまり大小はあれど常に選択を強いられるわけだ。


人生とは選択の連続でしかなくて、この僅かな選択の差が10年後、20年後に影響してくるみたいな思想も理解できなくはない。
バタフライ・エフェクトみたいな話だから一笑に付してもいいのだが、例えば10年後の体型が今とどう変化しているのかは、やはり日々の小さな節制が効いた選択の積み重ねで決まると考えたらしっくりくる。

こういう考え方を整理して化粧箱に入れたのが一部で流行っている「意識の高い生活」なんだろうと思う。


いい加減な選択を続けた結果、望ましくない未来が訪れるなら、日々の小さな選択も疎かにせず質の高い生活を送りましょうという事なんだと私は理解している。

こういう考え方はよく分かるのだけれど、じゃあ自分ができるかと問うと難しいだろうという結論になる。
新年が始まって今までの、のんべんだらりとした生活に別れを告げて「意識の高い生活」でもしてやろうかと思うのだが、やっぱり自分には無理だ。


否が応でも人生は選択が怒涛のように押し寄せてくる。
小さな選択の一つ一つは、あまり考えずほぼ無意識に決めている。こういうところが「意識が低い」と言われる所以だろうと思うが、大小構わず全ての選択を「より良い未来のため」という意識の高さで熟考していたら身がもたない。






おそらく「意識の高い生活」に憧れを持った若い子たちも、最初は実践できるのだと思う。
けれどそれが一生続くわけだし、正直に言えば疲れてくるはずだ。
だからといってそれをやめたら脱落してしまうという恐怖心がある。


日々の選択を真面目に捉えれば捉えるほど、そのストレスは積み重なって自分自身を苦しめることになる。
こんなものは適当にやっていればここまで思いつめることなど無いのだが、小さな選択といえども妥協していると、それが輝く将来に翳りを見せるかもしれないという不安から妥協ができなくなる。

そういうときに絶対的な自信を持ったカリスマみたいな人を見つける。
その人の溢れんばかりの自信に惹きつけられて、その人の言うような選択をするようになる。

結局、自分で決めるより誰かに決めてもらったほうが楽なのだ。

そのカリスマと呼ばれる人がいかに胡散臭くても、選択を委ねてしまったほうが楽なのは間違いない。
しかもそのカリスマは言う通りにすれば輝かしい未来があると、(第三者から見たらまったく根拠はないのだけれど)自信満々で言い切ってくれるから、信じれば信じるほど不安は解消される。

一旦こうやって取り込まれてしまうと、外野からそれはおかしいなどと助言しても聞く耳を持たなくなってしまう。
なぜなら今までの不安や悩みを一挙に解決してくれたのはそのカリスマだからだ。
外部からの指摘は攻撃として受けとり内側に閉じていって、更にカリスマに心酔してズブズブと沈んでいくことになる。


www.ikedahayato.com
今回のエントリーは上記の記事を読んだから書いた。だからといって彼のことだけを指して書いているわけではなく一般論だ。

けれど高知のトマトブロガーを崇拝してしまう人が出るのはこういうカラクリなんだろうと思っている。