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ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

大好きだったプロ野球 助っ人外国人列伝(80’~90’投手編)

先日書いたこの記事。

大好きだったプロ野球 助っ人外国人列伝(80’~90’打者編) - ネットの海の渚にて

この記事で約束したように今回は、80年台~90年台にかけて活躍した、私が大好きだった助っ人外国人投手を列挙します。


郭泰源(かくたいげん)

B00HD4UT9I
台湾出身「オリエント・エクスプレス」
150キロを楽々超えるストレート。140キロで鋭く曲がるスライダー。
安定して9回まで完投できるスタミナ。
本格派と呼ばれるピッチャーが欲しいものをすべて持っていた偉大なピッチャー。
投手の一つの完成形と言っていいほどの選手だった。
落合博満が最も苦手としたピッチャーだったことでも有名。



郭源治(かくげんじ 現在は日本に帰化されて佳久 源治)

B00HD4UVFU
もう一人の「郭」と言ったらこの人。
中日に入団後の5シーズンは先発として十二分に活躍したがその後抑えのエースだった牛島と落合のトレードによって抑えにコンバートされることになった。
優れたコントロールと150キロの速球。鋭く落ちるフォークは抑え投手として開花するのにもってこいだった。
87年にはファイヤマン賞を受賞している。
ちなみにバッティングも得意で88年に槙原寛己からさよなら2ランホームランを打っている。


サンチェ(ルイス・サンチェス)

f:id:dobonkai:20150214163401g:plain
ベネズエラ出身。脳血栓で2005年51歳でベネズエラにて死去。
抑えの切り札。伸びのあるストレートを外角低めにビシビシ投げ込んでいた。
非本塁打が阪神の佐野に打たれた一本だけという点でも抑えとしての優秀さがよく分かる。
気性の荒さが目立ってよくコーチ陣ともめて罰金を取られていた記憶がある。
彼のおかげでSFFという変化球の存在を始めて知った。



ビル・ガリクソン

B00EB4ERQY
バリバリのメジャーリーガーであったにもかかわらず、当時所属していたニューヨーク・ヤンキースの気風に合わず移籍先を探していたところ巨人の目に止まった。
二年間巨人で投げた後またメジャーに戻っただけでなく、91年シーズンには自己最多の20勝を上げる。
野球にたいして真摯に向き合う桑田真澄を尊敬し、生まれた息子のミドルネームを「KUWATA」にしたのは有名な話。
ちなみにピッチャーゴロを素手でキャッチするのは彼の癖だった。それまでは禁忌される行為だったが、彼以降日本人選手でも見かけるようになったのは気のせいだろうか。



アニマル・レスリー

f:id:dobonkai:20150214163750j:plain
完全におもしろ外国人枠。
タレントで活躍するときは亜仁丸レスリー。
86シーズンは抑えピッチャーとして及第点ではあったものの、いわゆる記録よりも記憶に残る選手だった。
選手としてよりもテレビタレントとしてのほうが活躍期間が長った。
2013年、腎不全にて死去。54歳だった。

アニマル・レスリー - YouTube



バルビーノ・ガルベス

B00FB6NSVG
長身から投げ下ろすストレートと胸元をえぐるシュートを得意とした。
そのピッチングスタイルのためにどうしても死球が多くなる。
デッドボールを当てておきながら相手打者に詰め寄る気の荒さで度々問題を起こしていたが98年の対阪神戦において、審判の判定に切れてしまった彼はその審判にボールを投げつけてしまう。
前代未聞の大乱闘によって罰金4000万円及び98年シーズンの全試合出場停止が課された。

ガルベス、球審橘高にボールを投げつけ乱闘 - YouTube



宣銅烈(ソン・ドンヨル)

B00GGLHVVI
母国では韓国球界最高の投手と呼ばれた彼だが、中日時代のアダ名は「アンパンマン」
抑えの切り札として君臨していた彼が出てくると「あぁもう試合は終わったな」と相手チームファンに思わせるくらいの安定感があった。
97年には38セーブを上げる活躍で抑えの大エース佐々木主浩と並ぶ、日本記録保持者だった。



エリック・ヒルマン

f:id:dobonkai:20150214164633j:plain
http://s55.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/1195124/?f2sns=00pboc4lpdbjq5i0jbjg3662bfnmqmve

2メートルを越す長身でその身長と腕の長さを活かした速球派かと思いきや落差のあるカーブやスクリューを得意とした軟投派。
インコースを巧みに突くピッチングで意外と死球も多い。
ロッテ時代はそのキャラクターもあって人気者であったが、97年シーズンに巨人に移籍してからが可哀想だった。
相次ぐ故障に悩まされて結局登板数は2試合。
最終的には渡辺恒雄の「金をやるから出て行け」と言われて退団。



最後に

今回の記事を書くにあたって、自分の過去の記憶を手繰っていたわけですが、意外と80年台に活躍した外国人ピッチャーが思い出せませんでした。
強烈な印象を残した二人の「郭」は、いの一番に思い出しましたが、バッターの時のように次から次へと溢れんばかりに思い出が蘇ってくることはありませんでした。

これは自分の記憶が悪いせいかと思ってデータベースをググってはみたものの、やはりその年代の外国人助っ人は、圧倒的にバッターが多くてピッチャーの数は少なかったわけです。
そのためにいくらでも語れそうなバッターに比べて、投手はなかなか難しかったです。

次回は炎のストッパー「津田恒実」について語ってみようかと思っています。