ボクがブログを書く際に何を一番大切にしているかと問われたらそれは読者だと答える。
読んでくれる人がいるからボクは記事を書くし、読まれる可能性が全く無いのなら書く意味が無い。
「書きたい記事」と「読ませたい記事」は一見似ているが実は違う。
ブログの書き手が書きたいことだけを書き殴っていたら、それは自慰行為と大差ない。
チラシの裏に書けばいいような内容を世界に向けて発信しているわけだから、たまたまそこに迷い込んでしまった読者が自慰行為に付き合わされるのは災難に他ならない。
ブログという媒体を使う以上、そこには自分以外の誰かが存在することを意識しなければならない。
だからボクは記事を書いている最中、常に読者を意識している。
自分の書いた文章を読者の方には人生の貴重な幾許かの時間を割いてもらっている以上、少なくとも読んで「損」はしなかったと思ってもらいたい。
もちろん読んで良かった、また読みたいと感じてもらえる文章を提供することがベストではあるがプロでもなんでもない、そこらのおっさんであるボクが書いているのだから、そこの閾値は多少甘めに設定していただきたい。
文才とは文を書く才能のことだがこれがまた厄介だ。
文才があるかないかという判断はとにかく難しい。
クセのある一見読みにくい文体でも面白く読ませるものもあるし、言ってることも主張も正しいけれどなんだか頭に入ってこない文章もある。
これらの違いは何なのか?
残念ながらボクにはわからない。
わからないからボクの書く文章は、自分が好きな文章になるよう努力している。
自分で書いた文章を自分が読んで面白くなかったらそれは容赦なくボツにする。
自分のブログなんだから好きにすればいいと思うがそれでは納得がいかない。
ブログは自分で書き、自分で構成し自分で添削する。
最終的にこれは読者に提供する価値があるのか自分に問いかける。
自分が決めた一定の水準を超えていなければ記事にはしたくない。
ここで妥協するとおそらくブログの質は著しく下がる。
自分に嘘は付きたくない。
納得できた記事しかアップしないので、ボクのブログは更新頻度が低くなるかもしれない。
現にもう何個か書き上げた記事をボツにしている。
ボクにとって非常に思い入れのある記事がある。
謎の美少女と色男の話 - ネットの海の渚にて
この記事を書くためにブログを始めたと言ってもいい。むしろこの記事を書いて何も反応が無かったらブログを止めようと思っていた。
これが誰かの心に響く作品でないのならボクに文才は無い。
誰かの鑑賞に堪えられるだけの作品を作り出せないなら公表する意味が無い。
ボクはその決意を胸に記事を書いてアップした。
幸いこの記事はツイッターで何人かの方からお褒めのコメントを頂いた。
嬉しかった。
ブログを続けていこうと思った。
この記事の後にアップした新参者が「はてブ」について困惑している話 - ネットの海の渚にてが予期せず多くの方に読まれることになった。
嬉しい半面、本当に読んでもらいたい記事が読まれていない。
贅沢な悩みではあるけれど寂しいのが正直なところだ。
読まれない記事はそれだけの魅力が無いからだ。
確かにそう思う。
ただ、目当ての記事を読むために訪問してもらっても、他の記事をクリックすらしてもらえない場合はどうしようもない。
それが愛している記事だからこそ余計にもどかしい。
読んでさえ貰えば何かを感じさせるものがあると思う。
自画自賛で恥ずかしいことこの上無しだが、この記事だけは特別な思いがあるからこそ自分の持つ全ての力を注ぎ込んだ自負がある。
今の自分が書くことのできる最良の作品に仕上げたつもりだ。
けれど読んでもらえない。
ここでボクは考える。
どうしても読ませたい記事ということでエゴに陥っていないか?
「書きたい記事」と「読ませたい記事」が似て非なるように、「読ませたい記事」と「読みたくなる記事」も同様に似て非なるものだ。
この辺りを勘違いし始めているのかもしれない。
書きたいことをただ書き殴っているだけではないか?
自分に問いかける。
ボクは書くことを今一度考え直さないといけない時期にきている。