人間は死ぬとその人生において培ってきた大量の情報や経験を全て消失させてしまう。
だからこそ人類は「文字」を発明し書物に知恵や知識を記すことで後の世代に継承してきた。
一人の人間が一生の内に触れる情報は膨大だ。積み重ねた経験も価値がある。そういった人類の連綿と続く情報のリレーによって現在の我々は生かされている。
「老害」という言葉がある。
この言葉がいつから使われ始めたのか私はわからない。
「老害」の対義語に当たりそうなのは「ゆとり」なのだろう。
若年層を揶揄する言葉として定着してしまったゆとりという言葉。
この言葉に責められる若者は気の毒だし不憫だ。
あくまで個人的な推測だが老害という言葉はゆとりと揶揄された若者が考えだした言葉なのではないだろうか。そんな気すらしてくる。
年代ごとに輪切りにしてレッテルを貼る行為は今に始まったことでは無い。
現に私も「団塊ジュニア」というレッテルを貼られていた。
私の一世代上は「無気力世代」あるいは「新人類」などと言われていた。
誰が何のためにネーミングしているのかわからないがそれが広く認知されてしまうことでその世代を理解できたかのような錯覚に陥る。
自分とは違う世代がどんな考えを持っているのかあるいはどんな性質なのか分かった気になってしまう。
現実はそんなに単純では無いのにだ。
考えることは面倒だ。
特に答えの出ない問答は疲れる割に実入りが少ない。だから人から与えられたアイデアに乗っかってしまえば簡単だ。そうやって考えることをやめてしまう。
自分で考えてもいないし現実を観察してもいない。
なのに世代ごとに輪切りにしたレッテルをすんなり受け入れて分かった風を装ってしまう。
様々な年代で付けられたレッテルの中でも「ゆとり」に含まれてる悪意というか嫌味の度合いは群を抜いている印象を受ける。
私の世代に付けられた「団塊ジュニア」は同じような人間が大量生産されていて金太郎飴のようだという意味が内包されているがそれほどこのレッテルに悪意を感じることは無かった。
「ゆとり」は違う。
個人的な意見だとは思うがそのネーミングにかなりの悪意を感じる。
それを付けられてしまう世代の若者は怒りを憶えたとしても当然だと思う。
そもそも「ゆとり」とはゆとり教育から来ているはずだがその教育を受けさせたのは上の世代だ。
彼らはゆとり教育を自らの意志とは無関係に受けさせられてしまった世代であって言い換えれば被害者だ。
そんな彼らから「老害」という言葉が出てくるのは自然な流れとも言える。
こうやって世代間闘争が始まる。
「ゆとり」という言葉の持つインパクトは強い。
同様に「老害」という言葉もその破壊力は抜群だ。
過去にかじりつき新しいものを拒絶する様は老害そのものだ。
時代にフィットすることの出来ない世代を「老害」という言葉で一括りにしてレッテルを貼る。
老害という言葉に対して明確な反論ができる材料は思いつかない。
一刀両断の破壊力が含まれている。
老害という言葉は使い勝手がいい。
しかも若者達の持つ敵愾心が内包されているから更に威力を増す。
それも仕方のないことだ。
ゆとりというレッテルを貼ったのだから同じく老害とレッテル貼りされても反論の権利は無い。
本来「老害」と呼ばれる世代は若者に知識と経験を伝える義務があるはずだ。
人類が過去から現在まで続けてきた「知のリレー」のバトンは次の世代へと繋がなければならない。
現在の世代間における断絶はそれを拒否することにならないか。
世代間のディスコミュニケーションは再生産されている。
私は最近こんなことをぼんやりと思うのだ。
- 作者: 尾木直樹
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