ネットの海の渚にて

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意識高い系がなぜ揶揄されるのか考えてみた

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意識高い系がなぜ馬鹿にされたり揶揄されるのか?
自分もどちらかと言えば「意識高い系」を冷ややかな目で見ているタイプだ。

極めて個人的な感覚だが意識高い系には「養殖感」がある。




意識の高い生活をすること自体は素晴らしいことだと思う。
自分の生活を鑑みると意識高い系を実施している方を揶揄することなど出来ない自堕落さだ。
休みの日は惰眠を貪るし空いた時間はネットで役に立つのかどうか怪しい胡散臭い情報を好んで摂取している。

そもそも限りある余暇を消費してまで、こんなブログを書いているんだから意識高い系が提唱する有意義な時間の使い方なんかとは程遠い。

水は低きに流れる

例えて言うなら意識高い系の人たちは水の流れに逆らってドンドンと上流を目指すことだと思っている。
上流で鮭のようにおそらく産卵でもするんだろう。

水の流れに身を任せてどんぶらコッコと下流に流された挙句、淀んだ水たまりにプカプカと浮かんでいる自覚が俺にはある。
自覚はあるのだが陽だまりで暖められた水たまりは案外居心地がいい。
止水だから多少臭うが。

プカプカと漂いながら意識高い系を揶揄しているのだから笑える話も笑えない。
とは言うものの意識高い系を見ていると「必死さ」というのがヒシヒシと伝わってくる。
何もそこまで本来の自分を抑えこんで、どこで仕入れた知識か知らないがいつも時間に追われて啓発本に書かれた内容を踏襲することが大切なのか疑問に思う。

手段と目的の取り違えというのは度々起こる

意識の高い生活をするのは目的ではなく手段だ。
思い描く夢を成就させるために今の自分を変化させる手段であって、あくまでも「意識の高い生活」は数多ある選択肢の一つでしか無い。
本来手段であるはずの「意識の高い生活」が目的にすり替わっているから滑稽に見える。


冒頭で「養殖感」と書いたがそれは意識高い系がどれも皆、金太郎飴の如く見えるからに他ならない。
啓発本に触発されて同じような言動、行動をしているからそこに「個人」が見えてこない。
借りてきた言葉で自分を飾り、借りてきた考え方で自分を鼓舞する。
その「意識」の「高さ」はどこから得たのか?

自分自身で考え悩んだ結果、いわゆる意識高い系と言われるような人たちと同じ結果になった人がいた場合、その人はまさに「天然物」で野生の力を持っているはずだ。
なにせ自分の言葉、考え方でそこに辿り着いたのだから養殖物に勝てるわけない。


大量に生産された「養殖物」は水の流れに逆らって果たして上流までたどり着けるのかどうか……。

淀んだ水たまりにプカプカと浮かびながらそんなことを考えている。

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