ネット上ではマスコミのことを「マスゴミ」と言って揶揄する言動が目立つ。
それはマスコミのスクープのためなら人権侵害とも取れるような、突撃取材などの過剰な報道合戦の果てに、消費者側と供給側の「求めているもの」の乖離が大きくなってきたからなのだと思っている。
事故や事件に遭った被害者のプライベートを取材によって明らかにすることで、その被害者にストーリー性を持たせて美談調に仕上げて消費しようとする。
マスコミの報道姿勢は、そういったものを国民が求めているという写し鏡とも言える。
つまりシンプルな事実だけを報じる客観的報道では飽きたらず、被害者の背景を知ることでなんらかの物語として消費したいという欲望が国民にあるから、マスコミとしてはその需要を満たしているだけだとも言える。
この国は自由競争がある一定レベルではあるものの守られているから、本当に消費者側の需要と供給側のギャップが大きくなればその媒体は生存できないはずなのだが、いまだに週刊誌をはじめとする「ゴシップ」的なものは、それが生存しうる経済規模があるということだ。
醜聞を流すマスコミにうんざりしていると言いながら、また国民は新たな醜聞を求めているということになる。
自分の記憶が定かなら、私は今まで一度もマスコミのことを「マスゴミ」などと揶揄したことは無い。
それはマスコミというものに、権力の監視機関としての機能を信じているからだ。
一般論として、権力は時間とともに腐敗する。
この腐敗を公に晒す役目を担っているのはマスコミだ。
司法、立法、行政という三権を監視する第四の権力としてマスコミは健全な国家には絶対に必要なものだと私は信じている。
だからこそある程度は多めに見るつもりでいたのだが、ここ最近の傍若無人ぶりには言葉が出ない。
北海道で置き去りにされて発見された男の子を退院の際にまで取材するのは果たして公の利益になるのだろうか?
また、市川海老蔵夫妻に対する取材姿勢もそうだ。
ガンという非常にセンシティブでこれ以上ないプライベートな情報を、どこからか嗅ぎつけたことで、それまで1年以上に渡って伏せられていた事実をスクープした。
海老蔵氏はそれを受けてこのまま逃げ続けても取材攻勢は終わらないだろうと覚悟して記者会見を開いた。
この記者会見は決して自ら希望して開いたのではなくて、夫人の病気をすっぱ抜かれたために仕方なく騒ぎを収めるために開いた会見だ。
海老蔵氏の心中は察するに余りある。
歌舞伎界のプリンスと呼ばれた男の妻が罹患している病名をすっぱ抜くことに公の利益が生じるとは決して思えない。
先の記者会見はマスコミの過剰な報道合戦をやめさせる意図があって開かれたものだと思うが、案の定夫人の姿や家族の声を撮りたいのか、命の危機に瀕している相手に対して張り込みや盗撮まがいの行為が今日も行われている。
以下は市川海老蔵氏の6月10日のブログ
今日もマオの実家や周辺での取材、
カメラでの盗撮?の様な行為はお控えください、
お願いします。マスコミの方々もお仕事である事は重々承知しておりますが、
人の命に関わることです。よろしくお願いします。
マオ本人の負担になるような撮影はやめてください。
本当によろしくお願いします。
よろしくお願いします。
静かに見守って頂きたいです。
度々申し訳ありません。マスコミの方々へ | ABKAI 市川海老蔵オフィシャルブログ Powered by Ameba
マスコミは、私達一般人にとって世の出来事を知るための重要な仕事だと思っている。
国民の知る権利を担う重要な職業だという尊敬の念も持っている。
だけれども昨今の報道を見ると本当にそれは報じる必要性があるのだろうかという疑念が湧く。
若い方は知らないと思うが昭和の時代のマスコミ合戦はそりゃもう本当に酷いものだった。
被害者のお葬式に堂々と乗り込んで、涙を流している遺族にマイクを向けて「今どんな気持ちですか?犯人になんて言ってやりたいですか」みたいなことを平気でやっていた。
私が子供の頃はそんな映像があまりに普通すぎて疑問に感じないくらいだった。
ところが昨今の報道のそれを見ていると、昭和の酷かった時代の報道合戦がまた戻ってきつつある気がする。
昭和の時代は今とは比べ物にならないレベルで報道被害が発生していてもちろんそれに対する大きな批判もあった。
様々な批判やマスコミが起こした失敗によって、マスコミ内部から自浄作用が働いて自主規制的なものが作られることになった。それによってようやく目に余るような突撃取材は無くなった。
……はずなのだが、最近そのネジがまた緩んできたのかジャーナリズムを一切感じられない報道が増えた印象だ。
マスコミの皆様、その報道は本当に公の利益に即してますか?
どうか第4の権力としての矜持を感じさせるような報道をお願いします。