ネットの海の渚にて

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【ネタバレあり】17年ぶりの新作「鵼の碑」が期待外れだったので不満や愚痴をみっしりと書く

17年もの間、待たされ続けた作品がようやく発売された。
百鬼夜行シリーズの最新作「鵼の碑」である。

もはや待たされすぎてもうこのシリーズはやめてしまったものかと諦めていたときに突如の新作発表があり正直驚いた。
発売日に買ってすぐ読んだが読み終わったあとから込み上げてくる様々な感情のやりどころがないのでブログに書いて成仏させたいと思う。
いわばセルフ憑き物落としである。


まず最初に結論から言ってしまうが、百鬼夜行シリーズの最新作としては大変不満である。
このシリーズは京極堂の憑き物落としが中心をなす話ではあるものの、実際にはそこに至るまでの延々と長い京極夏彦による「前戯」を楽しむものであり、ある種の変態性、性的倒錯、フェチズム、等など、グロテスクなのに美しく、ねちっこくてドロドロとしたストーリーテリングに若干の胸焼けを憶えながらも、京極堂による憑き物落としで作中の登場人物と同時に読者もまた憑き物が落とされて絶頂を迎えつつ、エンディングに至り脳汁がドバドバエクスタシーというのが私の求める「百鬼夜行シリーズ」である。
今作「鵼の碑」のようにあっさり薄味で口当たりの良い、万人受けする作品などは求めていないのである。

そもそもこのシリーズに興味がない人からしたら、こういうファンは気持ちが悪い上に害しかないとは思うが、このシリーズのファンであればこの気持ちはおそらく共有できるはずである。
端的に言ってしまうと今作はねっとりとした変態的なエッセンスは皆無であり、京極堂による憑きもの落としも、決して絶頂には導かれない。
だから、私の評価としては「百鬼夜行シリーズとしては凡作」ということになる。
ただし、そういった前提を排除して単純にエンタメ小説としての評価であれば、とても読みやすいし、過去作のような読む人を選ぶようなアクの強さも無いしグロテスクさもないので万人向けになっている。
読み物として十分に面白いのだから良作と言っていいと思う。良い悪いは置いておいて過去作一わかりやすい内容というのはある。読者が置いていかれるような意味の分からないシーンはほぼ無い。
ただ、やはりこのシリーズを待ちわびた気持ちの悪いファンとしては、17年間も焦らされ続けていた欲求不満は全く満たされなかったわけで、自作への期待値は猛烈に下がったと言ってもいい。

此処から先は、完全にネタバレ込で、私の愚痴を延々と垂れていく。
まだ未読の人はここから先は読まないように。


愚痴その1 ファンサが滑っている件

宮部みゆきが今作を読んで「百鬼夜行版アベンジャーズ」と評した通り、過去に登場したキャラクターが次から次に登場してくる。
確かにこれはファンとしては嬉しいのかもしれないが、その過去作オールスターが作品の中で本当に必要とされて奏功したのかと言うと、私はそうは思わない。
ファンサービスで出しまたよというのがアリアリと見て取れたし、結局対して活躍しないので登場する意味がなかった。
木場を日光に行かせた警察の古狸のメンバー達も、益田にちょっとだけ手助けした鳥口も、名前だけちょこちょこ出てくる釣り堀屋の親父も、他にも何人もいるが、それらの過去作キャラ登場に必然性は全くなくて、ファンサービスで登場させましたよファンの皆様はこういうのが嬉しいのでしょ?といった具合にしか感じられなかった。
要はそういう過去作のキャラクターの絡ませ方が不自然なのだ。そういう部分が気になってしまうと興が削がれる。
登場させるならそこに必然性はいるだろう。ただ出せばいいというわけじゃない。
作家デビュー30周年記念作品だからオールスターなんですよというのは私は必要ないと思う。

愚痴その2 謎が子供騙しすぎる件と偶然が重なりすぎて都合が良すぎる件

今作の最大の謎は「燃える碑」と「消えた3人の死体」だと思うが、特に燃える碑のタネが弱すぎて拍子抜けした。碑が燃えて見えたのは夜行塗料が塗られていたからってそりゃないわ。
夜光塗料をいくら大量に塗ったとしても「青く燃えている」ようには見えない。
確かに発光はするが、碑自体が青い火をまとってメラメラ発火して見えるような光量ではとてもないし、それを複数人が同じように誤認したという強引な結論をタネにされたら流石に萎える。

そしてもう一つの「消えた3人の死体」も、偶然が重なりすぎていて あまりにも都合が良すぎる。
もっというと、特高側と内務省側で死体の取り合いが発生したはずが「なんか上手くやったらしい」という京極堂のあっさりとした説明で流されてしまったが、これを謎解きというのならその死体の奪い合いがどのように行われて、第三者にバレずに工作できたのかってところが本来一番重要だったのでは?と思うのだが……。
そこをなんか上層部が上手くやったらしいで流されてしまうともはや謎解きミステリーとはなんぞや?ってことになる。
京極夏彦の筆致の旨さでうっかり読み流してしまったが、やはり読後に「いやそこ端折るなよ」という気持ちがフツフツと湧いてきた。

愚痴その3 憑き物落としが弱すぎて全然盛り上がらない件

最後の章である「鵼」が始まってすぐのシーンで、問題の「過去に大量殺人があった(とされる)館」に一行が赴くのだが、まさにそこが今作の最大の謎が詰まった場所であり、やはり最後の憑き物落としが行われる場所なんだというのはよろしいのだが、一行の前に姿を現した京極堂はなぜかそこですでに築山の憑き物落としを初めていたのである。

え?っとなった。
なんで築山なの?一番憑き物を落としてあげなくちゃいけないのは、間違いなく寒川じゃないの?
おそらくここまで読んだ殆どの読者はそう思ったのではないだろうか。
そもそも築山は寒川に吹き込まれて「憑いた」ことになっていたけれど、いやいやお前そんなに憑いてたか?京極堂に憑物落としやってもらうほどおかしくなってたっけ?と疑問に思って自分がどこかで読み落としたのかと不安に思ったが、京極堂は落とす気満々なのでなんだか、納得出来ないまま読み進めた。
さらに京極堂は築山ひとりを落とせばよかったのに、一行がずらりとこの場に揃ってしまったので、皆の憑き物もまとめて落とさなくてはならなくなった、やれやれみたいな感じになっていて、えーーそもそも今作で明確に「憑かれた」のって、寒川くらいしかいないし、まあ次点で築山も寒川のせいで憑かれたといってもいいけど、その強度はめちゃくちゃ弱いでしょ。
ぶっちゃけ京極堂が出張って憑き物落とししなくても、温かいものでも食って数日寝てりゃ元に戻るレベルの憑かれかたでしょ。
そもそも寒川自体が特別人を誑かすような特殊能力を持った人物じゃないんだし、最初はただ謎を追っているうちにだんだんとその確信に近づくにつれて、逆に謎に飲み込まれてしまった可哀想なある種の狂人ではあるけれど、過去作に出てきたような人を害する邪悪な狂人では決して無い。
そんな無害な狂人に内情を吐露されたくらいで、僧侶でもある築山の心の奥底まで、それこそプロが憑物落としをやらなくてはいけないほど、狂わされるわけは無いと思うんですけどね。
いやいや寒川は他人に狂気を伝播させる恐ろしい能力を持っているのですよというのなら、作中でもっと寒川の異常性を描かないといけないわけで、どちらにしても突っ込まれるポイントになる。

おそらく京極堂が言った「皆もまとめて憑き物を落とす」っていうのは、あとからその場に揃った木場と御厨、そして緑川のことを言っているんだと思うけど、この3人は正直憑物落としをしなくてはいけないほどおかしくなっていないでしょ?
どう考えても憑物落としをしなくちゃいけないのは、この場にいない寒川なのだから。
あの場で寒川はもう救えないみたいな空気に完全になってたけど、どうして京極堂ですら救えない絶望の状況になっているかは最後まで説明なかったですよね?
死期が近いみたいな話はあったけれどまだあの時点では死んでなかったはずだし、御厨に一目逢わせてやるくらいはあっても良かったと思うんですけどね。
この辺のモヤモヤが解消されないまま進行していくので、百鬼夜行シリーズの最大の見せ場である京極堂の憑き物落としのシーンを素直に楽しめず、今作の評価を大きく下げる要因になったのは間違いない。

愚痴その4 京極堂が超人過ぎて呆れた件

今作の謎解きにおいて最大のキーマンは山の民である「桐山老人」である。
この人を見つけることができれば謎の7割方は解けると言っても良いキーマンで、当然ながら刑事である木場も、薔薇十字探偵社主任探偵の益田もずっと探していたのに、終ぞ発見できなかったのだが、何故か京極堂はあっさりみつけているのである。
これには当然木場から「どうやって捜したんだよ」と突っ込まれたが、京極堂は「山に棲んでるご老人を知らないか」と居場所を知っている人に聞いたと言ってのけるのである。
「記録ではなく記憶に残っているのだから知っている人に聞けばわかるのである」と飄々と答えて木場も納得してしまうのだが、いやいやまてよと、あんたずっとお寺の中で古い文献資料をまとめていたでしょ?いつの間に聞き込み捜査をしてたの?さらに調査のプロを差し置いて、山奥に密かに棲んでいる桐山老人を見つけたの?いつそんな時間あった?その居場所を教えてくれた人って誰?と突っ込まざるを得なかった。
これだけの重要なキーマンを「聞いたら教えてもらった」という理由であっさり連れてこれるなら、木場や益田などは最初から不要だったといっても良いのでは?中禅寺秋彦ひとりいたら全部解決じゃんとなる。
そもそも山の民はこちら側の人間に対して警戒して身を隠していたはずなのにそんな桐山老人の居場所を聞いたら簡単に教えてくれるような人がいるなら、その人物がどういう者で山の民とはどういう関係なのかの説明くらいは必要だろう。

別に京極堂が裏で暗躍していても良いのである。しかしもしそうならやはりこれもそういうことをやっているぞと、作中でなんとなくでも触れておかないと読者は呆気にとられるだけでしかない。種明かしの段階になって実は裏でこんなにやってましたと言われても納得できませんよ?さらにそのやっていたことが全然詳しく説明されない。

京極夏彦の作品はレンガ本と言われるくらいにどれも厚い。
つまり超長編なのである。なぜこんな大切な要素を端折るのかよくわからない。
長すぎるから端折るのだとしたら、削るのはもっと他にあるだろうとしか言えない。
正直不必要で冗長な部分は過去作にも漏れなくあるしこの作品にも当然ある。
他の部分がめちゃくちゃに面白いから冗長な部分も流せるのだが、逆に本来書かなくてはいけない部分を端折られたらなんだこのレンガみたいに厚い本は!ってなるぞ。端折るな。もう100ページだろうが200ページだろうが書け書け。レンガ本はレンガ本である。読者は慣れている。端折るくらいなら冗長な方がいい。

まとめの愚痴

今回いろいろと書いみて、それで気がついたのだが、今作は結局「憑き物それ自体」が弱いのである。過去最弱と言って良い。
普通の推理小説は最後に探偵が、ずらりと並んだ登場人物の前で謎解きを開陳していくもので、この百鬼夜行シリーズも基本的な構造は同じである。
しかし普通の推理小説となにが違うのかと言うと、京極堂はただ謎解きをするのではない。その事件に関わったことで各人に憑いてしまったモノを落とす行為にある。
謎を解体し、絡まった情報を整理整頓し、皆が理解できるレベルにまで分解して、その本質を露呈させることで、取り憑いてしまった悪い物を落とすわけである。犯人逮捕や事件解決が主眼ではないのである。あくまでも憑物落としをしたことで副次的な結果として事件が解決してしまうことがあるだけだ。
そこが普通の探偵モノと一線を画するところであるのだが、今回はそもそも憑き物が弱いので、ただの謎解きに終止してしまい、憑き物落としの要素は殆どなかった。だから憑き物を落としたところでカタルシスは訪れなかったということなのだろうと思う。
カタルシスが起こらないのだからエクスタシーに達するわけがない。


つらつらと何千字も愚痴を書いてきたが、要はそういうことである。
もっというと今作の影の主役である「鵼」が弱かったということだ。
鵼はもとより存在していないのだからそりゃ弱いのである。
ファンが勝手に百鬼夜行シリーズは名作だ、京極夏彦は天才だと祀り上げているだけで、元々名作も天才も最初から無かったということかもしれない。
鵼と同様に……。
ひい。ひょう。

(それでもきっと次回作も発売日に買っちゃうと思うんですけどね……)