ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

弱者切り捨て自己責任の果てにある世界

『自分では死ねないから、大量殺人を犯して死刑になるために事件を起こした』『仕事で失敗して友人関係もうまくいかず死にたかった』とも話している。
bunshun.jp

今のこの世は弱者切り捨て自己責任論が幅を利かせてるわけで、そうなるとどこかで失敗して躓いてしまった人は容易に世界に絶望して「無敵の人」になる。このままならそういう人が増え続けると思うんだよね。
で、確率論的にその中で本当に死刑になるための事件を起こすやつが出てくる。


じゃあどうするかと言うと失敗した人や孤独を抱えている人を社会から断絶して「絶望」させないこと。
大きな犯罪を起こして人生を終わらすという選択よりも、法律を守って地道に暮らすほうが遥かに幸せを感じられる世界にしなければこういう「無敵の人」の犯罪はなくならない。なぜなら絶望した人から見れば死刑こそがこの世の苦しみからの救済になってしまっているから。

失敗しても自己責任として切り捨てられるのではなく救われる世界。そういう世界を実現することが無敵の人を作らないということに直結するし、電車内で無差別に人を殺そうとする狂人を生み出さない結果につながるんだと思う。

まあこういう話は、不景気になると治安が悪化するという当たり前の話でしかないのだけど、今の時代性というか昔と比べてあまりにも持つものと持たざるものの二極化がわかりやすくなりすぎているというのはある。
多くの場合、豊かさや貧乏というのは相対的なものであり何かと比べるから自分が恵まれていないということに気がついてしまうのだが、そういうのがSNSの発達でものすごくわかりやすくなってしまっている。
自分と同年代が毎日楽しくキラキラ生きているのにそれに比べて自分はなんなのだ、という格差を嫌というほど見せつけられてしまうこの環境というのはそれこそ若い人ほどつらい思いをしてるのは容易に想像できる。
そういう積み重なりが自暴自棄につながるわけで、そういうものを見るなと言うのは簡単だけれど、それは決して解決法にはなりえない。

だからやはり冒頭に戻ることになるが「絶望」させない世界を作るしかない。
そしてそういう世界を作るのは政治の仕事だ。

今回の衆議院選挙では維新が議席を伸ばしたくらいで大勢は変わっていない。
この格差社会を作ってきた自民党は今後もこの国を運営していくわけだが、今回の京王線の事件のような犯罪はこのままであれば今後増えていくだろうと私は考えている。
こういう事件が今はまだ数が少ないからある種の自然災害のようなもので、国民の一人ひとりは自分がその被害者側になるという想像がリアルな段階にまで来ていない。
まだまだ対岸の火事でしかないのだが、これがそれこそ月に一回くらいのペースで発生するようになったらようやく自分ごととして真剣に考えるようになるんだろうと思う。
そこまでいってようやくケツに火が付き、真剣に政治を考えるようになるんじゃないかな?そんな国民性に正直諦めの気持ちがある。
確かに諦めの気持ちはあるけれど、それでも私達は今の若者や子どもたちのためにこの世界を今よりほんの少しでも良くしていく義務があるだろうと思っているしそう信じている。
だからやっぱり政治というものを本当に自分自身の問題として真剣に考える必要がある。これは勤労や納税、義務教育を受けさせるといった国民の三大義務に追加して四大義務にしても良いとすら私は思っている。

結局世界を変えるのは私達の投票行動に直結する話であり、それは決して他人事ではない。確かに自分のたった一票で世界は変わらないかもしれない。だけれどその非力な一人ひとりの一票一票の積み重ねが世界を変えていくわけで、だからこそもっと政治に興味を持って勉強してより良い世界になるように皆様にお願いしたい。