ネットの海の渚にて

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いまだに「日本死ね」という部分にこだわっている人はこの問題の本質をないがしろにしてる

2月15日に書かれた「保育園落ちた日本死ね!!!」という記事が、文字通りのバズを経て、国会で議題に上がるまでの広がりを見せたのは記憶に新しい。
anond.hatelabo.jp

そしてこのタイトルにある「日本死ね」という部分に1ヶ月以上経た現在においても、いまだに引っかかっている人がいる。
こういうヘイトスピーチにも繋がるような乱暴で強い言葉を使うのはいかがなものかみたいな言説を、今の段階になってもやっているのを見かけることがある。

件の記事が一気に拡散され国会までたどり着いた一因にその過激なタイトルが一役買っているのは確かだろうと思う。
全く同じ本文でもタイトルのつけ方が違っていたら全く話題にならぬうちにネットの藻屑と消えた可能性もある。


SNS全盛の時代であるから拡散されるか否かはタイトルそのものに惹かれるか?という成分はかなり高い。
本文よりも前にタイトルで興味を引けなければ読まれることがないわけだから、タイトルがいかに重要であるかはよく分かるはずだ。






件の記事はそのキャッチーなタイトルが目について拡散を巻き起こしたわけだが、普通のバズとは根本的に違うのは、国会にまでたどりついて様々な政治的な運動を引き起こすトリガー足り得たことだ。

これはいかにキャッチーなタイトルをつけたとしてもこんな相乗効果は生まれない。
数多あるバズとの違いはその本文にこそある。

本文もかなりぶっきらぼうな語り口で、言ってみたら口が悪い。
けれどこれを読んだ全国のお母さんの琴線に触れて大きなうねりを引き起こした。

保育園に対する不満とそれを通して国に対してふつふつと溜まっていたフラストレーションがものの見事に言語化されていて、読んだお母さんたちは大きなカタルシスを感じたことだろうと想像する。
だからこその異例のバズであり多くの人の背中を押すことになった。


私が言いたいのは、確かに「日本死ね」という乱暴で捉え方によってはヘイトスピーチになりかねない言葉を使ったことには一定の批判はあってしかるべきだと思うが、もうすでにこの大きなうねりは次のステージに進んでいるのであって、「死ね」という言葉が云々というフェーズはとうの昔に通り過ぎている。
言ってみればタイトルというのはあくまでも包装紙に過ぎないのであって、議論はとっくにその荷物の中身に移っている。


もはや保育園が足りないという現実に対してそれを解決するための具体的な言説が求められている段階であるのに、いまだにタイトルに使われた「死ね」という表現がどうのこうの言うのは、全くこの問題の情勢が見えていないし本質から大きく逸脱している。

「死ね」という強い言葉があったからこそ、それがフックとなって多くの人の目に止まったのは間違いない事実である。
確かにその言葉のチョイスには功罪あるだろうと思うけれど、結果として保育園の問題を一気に押し上げて社会運動を起こさせるまでになったのだからこれでよかったと私は思っている。

こんなことは言いたくいないが、現時点に至ってもまだタイトルの付け方云々にごちゃごちゃ言っている人に対しては、保育園不足や少子化問題については二の次なのかと勘ぐってしまいたくなる。


「日本死ね」というフレーズがなぜ使われたのかについて、熟考に熟考を重ねて深く掘り下げていったとしてもこの問題の本当の答えはそこには埋まっていない。