ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

ヒグラシ

私の住んでるこの街には、ほぼど真ん中に川が流れている。
街を東西に分断する形で流れる川を越すには数キロごとに架けられている橋を使う以外無い。
だからその橋の周辺の道はいつも混んでいる。

今日もいつもと同じように混雑する橋の交差点を抜けなければいけなかったのだが、実は地元の人間だけが知っているような抜け道がある。
川沿いに土手があってその上は一見通行止めになっているように見えるのだけれど、あるところからなら入れるし、同様にある場所から側道に戻れるようになっている。
ただその見た目から本当に地元のものでなければ知らないような、裏道の裏道のようなところでほとんど誰も通らない。

見通しもよくないしアスファルトもところどころ剥がれているしで、あまり使いたくないのだが急ぎのときは背に腹は代えられない。
そんな裏道をわざわざ通るということは、とにかく急いでいるからであって周りの風景を眺める余裕はもちろん無い。

なのに今日は、土手上の道を走りながら川原に生えている木に目が行った。
何の変哲もない、川原に一本だけひっそりと立っている枯木。
なんだか急にそして猛烈にその木に触れたくなった。
車を停めて急峻な土手を駆け下りた。


近寄ってみると土手の上から眺めていたよりも遥かに大きくて逞しい。
大雨が降ればこのあたりも川の一部になるだろうに、この木だけは生き残ってここに何年も立っている。

ザラリとしたその木肌に手のひらを当ててみた。

一番下の枝と幹の付け根のあたりにセミがいた。
透き通った羽のセミで小ぶりだったからおそらくヒグラシだろう。
メスだからか一向に鳴く気配はない。

ふと後ろを振り返るとトンボが何匹か舞っている。
そうだ、もう秋なのだ。

数日前までは日中汗ばむような気候だったけれどもう10月の中旬なのだから完璧に秋である。


セミは成虫になると僅かな期間しか生きられない。
その僅かな時間で異性と出会い、子を残せなければ、真っ暗な土の中で何年も過ごした甲斐がない。

「お前さん、土から出て来るのが遅すぎなんだよ」と言ってヒグラシをツンとつついてみたらポトリと落ちた。

季節を間違えたヒグラシは、仲間に出会うこと無く木にとまったまま死んだのだ。

地面の上にコロリとひっくり返ったセミをそのままに土手に停めた車に戻った。
ドアをバスンッと閉めてハンドルに手をかけて大きく息をついた。
気がついたら涙がこぼれていた。