まともにトラップもできない“にわか”は黙ってろよ を読んで考えた
まともにトラップもできない“にわか”は黙ってろよ
これを読んだ。
気持ちはよくわかる。
特に自分が愛し、人生の多くの時間や情熱を注ぎ込んだジャンルについて明らかに浅い知識でしたり顔で語られたらたまったもんじゃない。
物心ついた頃から竿を握っていた俺からしたら、昨日今日始めたようなニワカが釣りに対しての心得みたいなもんをブッていたら思わず「何言ってんだ」とツッコミたくなる。
小学生の頃本気で大岩魚を釣るために「石化け」しようと努力していた俺をバカにしてんのか?となる。
(石化けとは釣りキチ三平に出てくる秘技)
ツッコみたくなるのだがそれは我慢したほうがいい。
そうやって「ニワカ」とバカにする行為はそのジャンルを先鋭化、孤立化させるだけでいいことは無い。
一見さんお断り的な空気が充満している業界は敷居が高くてなかなかご新規さんが入ってきにくい。
自分がそのジャンルで楽しめるのもある程度の商業的キャパシティーがあるからで、それらがドンドンと減ってしまえばそのジャンル自体が先細りしてしまうのは間違いない。
そうなってしまえば元も子もない。
誰しもが最初は「ニワカ」であったはずで、この段階を経て初めて一端の趣味人になっていくのである。
もっと言ってしまえば北大路魯山人だって最初はニワカだったはずだ。
ニワカを育ててそのジャンルの裾野を広げるのも先人たる者の勤めではなかろうか。
「ニワカ」が安心して語れるような風通しのいい環境を作るのも、そのジャンルが育つ一つの要因であるはずだし、反対に落語のように素人が語ること、それ自体を批判するような空気に包まれてしまったことで重苦しいものになってしまったジャンルもある。
シーザーを理解するためにシーザーである必要はない
これはマックス・ウェーバーが『理解社会学のカテゴリー』の中で語った言葉だ。
この言葉を借りるなら、
「サッカーを語るためにサッカー選手である必要はない」となる。
ニワカが何かを語ることを否定してしまうと大抵の人は何も語れなくなる。
そもそも俺だってプロの物書きじゃないのだから「なに偉そうに書いてんだ」という批判に晒される。
そしてその批判をする読者もまた「プロの批評家でも無いくせに何言ってんだ」となる。
そうして誰もが何も語ることの出来ない世界になってしまう……。
なーんてことは起こらないのだけれど冒頭で紹介した増田の論法を厳密に運用したらそんな世界になってしまう。
増田のように自分が情熱を注いだサッカーに、たいした愛情も感じられないような「ニワカ」が知ったかぶりで語っているのを苦々しく眺める気持ちは大変よくわかるし同情する。
けれども別のジャンルでは、自分がその「ニワカ」になっている可能性があることを心しておく必要がある。
兎にも角にも何かを語る場合は、その対象にリスペクトを忘れないようにすることを自戒を込めてここに書き記しておく。
今週のお題「サッカー」