ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

初代ファミコンを必死こいて買ったときの思い出話

俺が小学3年生の時に初代ファミコンが発売された。
それまでゲームは近所の駄菓子屋に併設されたゲームコーナーでやるものだった。
ゲームセンターではなく、あくまでゲームコーナーだ。
おばちゃんがやっている駄菓子屋の横のスペースに半ば強引に日曜大工感あふれるゲームコーナーがあった。
屋根なんかは確かブルーシートだった覚えがある。
そこにはドンキーコングやルート16、ゼビウスなんかの筐体が5~6台置かれていた。
小学校低学年の俺はそのゲームコーナーに入って遊びたかったのだが大抵そこには高学年の連中がたむろしていた。

そんなところに一人でノコノコと入っていけば間違いなくカツアゲされる。
小学校高学年の連中だけならまだしも中学生も混ざっていたりすると質が悪い。
カツアゲされ率は100%だった。
だから学校帰りに猛ダッシュで家に帰り、母親からお小遣いをもらうとすぐさま駄菓子屋に向かった。
高学年の連中が駄菓子屋に集まる前に目当てのゲームをやるためだ。

そんな涙ぐましい努力をしていたのだが比較的裕福な友達の家に遊びに行った時に発売されたばかりのファミコンを初めて目にした衝撃ったらなかった。


何の変哲もない普通のテレビにゲームコーナーでしか見たことがなかったドンキーコングが映しだされていた。
お小遣いを気にすること無くドンキーコングが何度でも繰り返し遊べる事実に膝が震えた。


【欲しい。絶対に欲しい】
ファミコンという存在を知ってから実際に手に入れるまではまだまだ時間がかかる。
とにかくお金を集めなければならない。
その日から俺はファミコンを手にするための作戦を練ることになる。

当時は毎日母親から50円の小遣いをもらっていた。
その小遣いは駄菓子屋でお菓子に化けるかゲームに使っていた。
それを止めた。

家族で田舎の祖母の家に行くと大抵おばあちゃんがティッシュにくるんだお小遣いをくれた。
その中には2000円~3000円入っていた。
当時の俺にとってそれはボーナス以外の何物でもない。
それまではいったい何に使ってしまったのか記憶が無いが散財していたのだろう。
おばあちゃんからのボーナスも全てファミコン貯金に回されることになった。

その年のクリスマスに何が欲しいか親から尋ねられた時も「現金で」と答えた俺はまさに現金な子供だったがそれに応じてしまう両親もどうかと思う。
たしか5000円もらったはずだ。

その後の最大のイベントであるお年玉は真剣勝負だった。
ファミコン本体と欲しかったソフト代。しめて20000円をとにかく早く集めたかったからだ。
親戚が集まる場でいつも以上に俺は愛想を振りまいていた気がする。
今となって思えばそもそもすでにお年玉は準備済みであり、対象の子供が可愛かろうが憎たらしかろうが面倒くさい親戚関係のしがらみのなかでお年玉は粛々と授受されるのだが、当時はその仕組がわからないまま愛想を振りまいていたのだから滑稽であり不憫である。

紆余曲折あったものの努力の結果なのか目標金額を手にした俺は「いざ鎌倉」と言わんばかりに田舎から帰省した直後に街に連れて行けとせがんだ。


今でもはっきりと覚えている。
1月3日の話だ。
お年玉によって20000円の目標に到達した俺は母親と一緒にバスに乗って街に出た。
父親は正月の三が日は飲みまくりの酔っ払いまくりが恒例行事なので車を出してもらうことは不可能だった。
母親も正月くらいはゆっくりしたいと渋っていたが俺の切実であまりにしつこい要求についに折れてくれた。


バスに揺られて街の中心街へ意気揚々と到着した。
その商店街には老舗のおもちゃ屋が数件あって、いくら人気のファミコンといえどどこかにはあるだろうと高をくくっていた。
当時ファミコンは爆発的な人気が出てクリスマス商戦の時点で各所で売り切れが続発していたのだがそんな情報は金集めに必至だった俺の耳には入ってこなかった。

中心街にある3件のおもちゃ屋の全てで売り切れだった。
しかも入荷は未定。
それどころか予約までびっしりと入っているらしく、注文してもいつになるか分からないとそっけなく対応された。

がっくりと肩を落とした俺を連れて所在なさげに歩く母の姿を今も覚えている。
うなだれまくりの俺を母は慰めてくれていたが帰りのバスの車内では涙を堪えるのに必至だった。
ただその時に急に思い出したことがある。
家から街に向かうちょうど中間地点に潰れかけ疑惑のあるおもちゃ屋があったのを思い出した。
いきなり俺が途中下車しようと言い出したので母は面食らっただろうがここまでうなだれている息子を不憫に思ったのだろう。何も言わずにそれに従ってくれた。
今までに一度も降りたことの無いバス停に下車してそのおもちゃ屋に向かった。

いつもはバスの車内から、ちらっと見ていただけだったが実際に目の前にするとなるほど潰れそうな外観だった。
俺は「こんな店に売ってるわけない」と思ったのだがここまで来た以上入らないわけにはいかない。
諦めの境地ではあったものの店内に入った。
もうおじいさんと言っていい年齢の男性が一人で店番をしていたのですぐさま声をかけた。
どうせないだろうと思いながら「ファミコン」の名を出したのだが「あるよ」と即答したので面食らった。
見る見る表情が明るくなった息子をみて事情を察した母親が近づいてきた。
「あったの?よかったね」
そう母親が声をかけてくれたのだが世の中はそんなに甘くなかった。

この頃まだ「抱き合わせ」という言葉はなかったと思うが店主の親父いわく、ファミコン本体を売るにはこのゲームカセット5本も同時に買ってもらわないと困ると言い出した。

当時のゲームは一本あたり4000円~5000円だ。
それを5本も買わされたら完全に予算オーバーになる。
しかしファミコンは品薄で他で手に入れることは不可能に思えた。
それを横で聞いていた母も流石にその商売の仕方が頭にきたらしく店主に対して交渉を始めた。

俺のもともとの予定はこうだ。
本体14.800円 欲しいソフト一本4500円
20.000円の予算で充分足りる腹づもりだった。
ところが現実は違った。
欲しくもないソフトが5本
それに本来欲しかったソフトを入れたらいきなり6本のソフトを買うことになる。

俺は絶望していた。
ファミコン本体とゲームソフトが陳列されたガラスケースをただただ覗きこんで絶望していた。

絶望しすぎて魂が抜けかけていた頃に交渉中だった母が俺のもとにやってきた。
どうやら交渉の結果5本の中から2本を買えばいいとのこと。
母のお陰で当初に比べてかなり良い条件にはなったものの結局それでも予算オーバーである。
その旨を母に伝えると全て察した上で「お父さんには内緒だよ」と言って足りない金額を出してくれた。


「あぁ、母上様。ありがとうございます」
面と向かって言うのは恥ずかしいから30年経った今ブログで書いときましたよ。
当時の俺は天にも登る気持ちでおりました。


抱き合わせのソフトの中から「ポパイの英語遊び」と「五目並べ」をイヤイヤ選び元々欲しかった本命の「マッピー」を購入した。(アーバンチャンピオンと死ぬほど悩んだ)

初めてファミコンを見てから約一年。
紆余曲折あったもののどうにか手に入れたファミコンはこの後ナイターを見たい親父との熾烈なテレビ争奪戦が繰り広げられることになるのだがそれはまた別のお話。

Nintendo FAMICOM MUSIC(任天堂ファミコン ミュージック)

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ファミコンの思い出

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ファミコンとその時代

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