読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

不文律とか暗黙のルールとかについて思うこと

先日の大相撲の千秋楽、横綱同士の優勝がかかった結びの大一番。
見ている側としたら今場所のクライマックスで文字通りの「大一番」だった。
当然ながら大きな期待をこめてその立会を見つめたわけだ。

ところが白鵬はすっと左に変化して、まっすぐ突っ込んできた日馬富士をいなした。
あっという間に勝敗は決して軍配は白鵬に上がった。

その後の出来事はニュースなどで報道されたとおり白鵬に対して観客から罵声が飛んだ。
なかには国籍を揶揄するようなヤジもあったらしいが、それは悪質なヘイトスピーチであって他のヤジと一緒にしてしまうとおかしくなるので分けて考えたほうがいい。

なぜこれだけヤジが飛んだかというと簡単にいえば白鵬が相撲界に伝わる「横綱の不文律」を破ったからに他ならない。


横綱という特殊な地位

横綱は大関以下とは違って特殊な名誉職である。
普段の立ち居振る舞いや言動、一挙手一投足までもが横綱としてふさわしいのかということで議論の対象にされる。
土俵上の相撲については言わずもがなである。
横綱はいついかなる場合でも不文律として「横綱相撲」が求められている。
横綱相撲が体現できないとなれば、あとは引退しか無い。
横綱とは最高の名誉職であると同時に多大な責任も生じる特殊な役割だということを理解していないとこの一件を見誤る。



例えば朝青龍なんかは、かなり奔放な横綱だったのでその言動が度々問題になった。
話題になる回数も多かったので覚えている方も多いと思う。

ちょっと古いが第60代横綱 双羽黒が女将さんに暴力を振るって事実上の破門になったこともある。
ちなみに元双羽黒こと北尾光司さんは角界からプロレスラーに転身したあと、スポーツ冒険家というなんだかよくわからないものになってしまったので、やがて私の観測範囲から消えてしまい現在の動向はよく知らないのだがそれはまた別の話。

話が脱線して思わずスポーツ冒険家を紹介してしまったが、横綱であり続けるということは公私含めて大変困難なのである。





お花見の場所取り問題

これも先日話題になった話なのだが日揮株式会社が公園のかなり広大なスペースを花見のために場所取りをして問題になった。
現在は謝罪して撤去したらしいが、この手の花見トラブルは全国各地でよく聞く。
花見で横浜の公園半分以上を5日間「場所取り」 ネットで非難殺到して「謝罪」「撤退」した大企業 (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース


公園という公共スペースを花見という目的で誰かが独占するという行為は、そこに集まる人達のマナーがある一定レベル以上で維持されていなければ間違いなく崩壊する。
そもそも場所取りという行為が法的にかなりグレーだということ。
しかしながら場所取りという行為は、ある程度の大人数で花見をするためには致し方無い部分でもある。
花見の「場所取り」は合法? 「不法占拠」ではないのか? - 弁護士ドットコム


夕方になってふらりと公園に立ち寄ったって、簡単に大人数が使えるようなスペースが確保できる可能性は極めて低い。
そうなると事前の「場所取り」という行為が始まることになる。
それが結果的に場所取り合戦になり、不文律によって保たれていた秩序がやがて崩壊するに至る。


花見で有名なスポットに行くとこの問題に管理者が頭を悩ませているのがよく分かる。
今までは、ある程度使用者の「マナー」という名の明文化されていないルールによってどうにか保たれていた秩序が、誰かによって蹂躙されたことをきっかけに、ドミノ倒しのごとくガタガタっとモラルが崩壊するケースというのは多い。

ちなみに私は釣りを趣味にしているのだが、朝早い時間に昨夜バーベキューが行われただろう河原などを見ると、あまりの惨状にげんなりする。
こんなことを続けていたら地元民の反対によって河原の立ち入りが禁止されたとしても反論の余地が無い。
実現してしまえばバーベキューだけではなく釣り人も締め出されることになってしまうのだが仕方がない。


脆弱な不文律

例えば花見の場所取りについて明確に禁止されていないのだから、公園の大半のスペースを確保したっていいだろと言う輩が出てきた場合に、それに対してルールを明文化するという対抗措置がとられることになる。
ほかにもいちいち書くほどでは無かった程度のマナーも「ルールに書かれていないから問題ない」という行為が続けば、結果的に厳格に明文化されたルールを逐次追加していくことになる。


相撲も花見も不文律という目に見えないルールによって安寧が保たれていたのだが、誰かがそれを破ることで模倣するものが続くとやがて秩序が維持できなくなる。
それでは皆が困るのでルールに書こうとなるわけだが、そうやってルールが明文化され縛りがきつくなると今度はルールの隙をつくことが行われるようになる。
この繰り返しによって穴を塞ぐための更なるルールが追加されるようになる。
最終的には、はじめからマナーを守っていた者までもがギチギチに規制されることになってしまう。


不文律という名の暗黙のルールは、明文化されていないからこそ参加者の良心によって保たれるものであって、逆に言えばある程度運用に「遊び」を取っているということになる。
車のハンドルのように若干の「遊び」を設けることでそれが緩衝材になってある程度の応用も効く。

だからこその不文律なのだが、これを破る人が必ず言うのが「だってルールに書かれていない」である。
ただ、これに対する一番の対抗策がやはりルールの厳密化ぐらいしか思いつかないので本当に悩ましい。