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ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

目的と手段を取り違えるとおかしなことになる

コラム ミニマリスト

手段と目的が入れ替わる現象

前年よりも売上をアップさせるという「目的」を掲げて、それを達成するためにはどうしたらいいか、というようなことを会議でやる。
その答えは「客先への訪問数を今より増やす」というような案が出てくる。

まあ一番当たり前だし、これに勝るものもそれほどなさそうな気がする。
なので会議の決定事項として、今までが一日あたり10件訪問して営業をかけていたのなら、その件数を増やそうということになる。

前年比売上20%アップを目標とするのなら、一日の訪問数も20%アップの12件にしたら計算は合うはずだ。
しかしそうならない。そんなにうまくいかないのが現実だ。


そもそも、毎日の訪問件数だって日によって増減はある。
常に上からプレッシャーをかけられて追い込まれているから、日に訪問10件という数字自体がすでに物理的にも時間的にも「ギリギリ」ということはザラにある。
そんな現状を無視して訪問件数を増やせという新たなプレッシャーをかけられるから、一件あたりの営業が手薄にならざるを得なくなる。
要は訪問先での滞在時間を短縮するくらいしか、訪問件数を増やす手立てが無いのだ。

結果として、一日あたりの訪問件数は増えたが、契約件数が以前より下がるみたいなことだって起こりえる。
こうなったらまさに本末転倒なのだ。






なぜこういう事が起こるのかというと、いつの間にか「手段」と「目的」が入れ替わっているからだ。

本来は売上をアップさせることが「目的」で、その「手段」が訪問件数のアップだったはずだ。
ところがいつの間にか訪問件数を増やすことに、上も下もが躍起になって、一番重要なはずである営業行為そのものが、訪問件数を増やすためにないがしろにされてしまう。

このような例は実際によく目にするし、相談されることも多い。


売上を増やすという目的を達成させる方法は決して一つではない。
けれどわかりやすい方法というのはある。
訪問件数を増やすのは「数」というわかりやすい指針があるし、従業員同士を競争させやすい。
頑張っている、あるいは頑張らせているというのが見える化できて管理がしやすい。
だから安易にこういった方法が採用されやすい。

皆で競わせているといつの間にか訪問件数そのものが目的化してしまう。
どうしたら訪問件数をもっと増やせるかという方向に努力が向かってしまう。
管理側からみたら、皆が頑張っているように見えるし、実際に頑張っているのだろう。しかしそれは本来の目的である売上のアップには貢献しない頑張りに変容してしまっている。

こういう、ある種の「集団ヒステリック」のような状態に陥るケースを多々見てきた。


本来の目的に沿うように管理側は促す必要があるのだが、現場が違う形で盛り上がってしまって方向修正が効かなくなってしまうことがある。
このような状態に陥ると、本来意味のない行為が賛美されたり、無駄な頑張りが褒められるという異様な空間が形成されることになる。
その中にいる人間はその異常さに気がつかない。

手段が目的化してしまうというのは案外皆さんの身近にある現象なのだ。


自称ミニマリストに感じる違和感

ミニマリストという言葉が流行りだして、いろんな人が名乗り出した。
ライフスタイルとしての「ミニマリズム」とは、端的に言うとモノに囚われずに身軽に生きる事、それこそが目的だ。

決して「ミニマリスト」になることが目的ではない。
あくまでもミニマリズムは手段であって、自分が望む理想の生活を営むための方法論でしか無い。
もっと言うならばミニマリストとは自称するものではなく、その人が営むライフスタイルを、第三者が評して「あの人はミニマリストだ」と呼ぶのが自然なはずである。

ところが、はてなでよく見かける自称ミニマリストの方々は「ミニマリストになること」そのものが目的になってしまっている。
何者でもない自分をブランディングするために、キャッチーで口当たりの良かった「ミニマリスト」という言葉をろくに定義付けをしないまま名乗っているように見える。


モノを捨てるのは本来、その執着から解放されるためであるはずなのに「ミニマリストになるために捨てました」となる。
ミニマリストブログを書くために、モノを捨てているのでは?と邪推したくなるほどだ。


はてなで見かけるミニマリスト界隈に感じる違和感というのは、おそらく目的と手段の取り違えからくるチグハグ感なんだろうと思っている。

「ミニマリズム」とは、幸せに、あるいは目指している生活を手に入れるための方法論の一つであり手段でしかない。
決してミニマリストになることが目的ではない。

「健康のためなら死んでもいい」みたいなエキセントリックさを、あの界隈から感じるのだ。