ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

「誰が」書いたかより「何を」書いたかのほうが重要なはずなのになかなか割り切れないなぁって話

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photo by CollegeDegrees360
作品と作者は切り離して評価しなければならないと常日頃思っているのだが、なかなかそう簡単にはいかないところに自分の未熟さを感じたりする。

商業ベースに乗ったプロの作品であればその理想にかなり近づいてきていると実感はあるのだが、こと素人の作品になるとそう簡単にはいかない。
特にブログのような媒体は書いている個人のパーソナリティこそがメインディッシュのようになっている場合が多く、そうなると作者、作品の切り離しが困難になる。


世間の「せ」の字も知らんような青二才なガキが社畜を煽り、就職すらしたこともないおぼっちゃんがブルーカラーの連中を揶揄する。
そういう机上の空論でしか語っていない青臭いガキの説教ほど空疎なものはない。


その人物が掲げる論がいくら正しくても入ってこない。
筆力があろうが論の構築が素晴しかろうが所詮はガキの空論じゃねえかという気持ちがどこかにあるから心に響かない。


実はこの感覚は俺が一番否定したい感情でもある。
ネットの上でまで年齢や経験、学歴や性別に縛られて評価するのは愚の骨頂であると考えている。

例えば、東大の教授とそこらの中学生がネットの上では、個人的バックグランドを無しにした状態で論戦を交わすことができる「場」と考えている。

身分を明らかにしないからこそ純粋に論戦を交えることができるわけで、人となりが見えないネットはまさにそういう場に相応しい。


ネットの論戦にリアルの立場を利用するのはずるいとすら思う。
持論にその人の背景を利用した権威付けをしてしまう行為だ。
もちろんその逆もある。

つまりケツの青いガキが何言ってんだというのは一番否定しなければいけない言説なのだが、じゃあそれを俺自身が守っているかと言えばそんなことはない。

そういった見方をしてはいけないと自戒しているのだけれど、ことブログにおいては書き手の人となりが見えてしまうので冷静に判断できなくなる。
とりあえず人間なんだから完璧でもないし潔癖でもないと自分に言い聞かせているものの、本来守りたい理想と現実とのギャップは案外ストレスになっている。

たいした人生経験も無いような奴がどこから湧いて出てくる自信なのかは知らないが、上から目線で訓戒じみたことを垂れているのを見ると冷ややかな視線で眺めてしまう自分がいる。


実名で克明なプロフィールを公開してブログを書いている人もいる。
肩書が医者だったり、超一流大学卒だったり、誰もが知っているような大企業に属していたり、そういった人達は自分のキャラクターであったりバックグランドをアピールすることで言説の裏付けに利用したりしている。
もちろんこういう人達を否定したいわけじゃない。

多くの人はハンドルネームを付けて、詳細なプロフィールはぼかしている。
実生活と切り離した場所で文章を書いているから身バレは避けたい人が多いのだろう。
とは言いながらもブログを続けていけば、その人となりが見えてくるのもまた確かだ。

その個人が持つステータスが徐々に明らかになることで「こいつ何言ってんだ」となる場合と「なるほどなぁ」と説得力が増すケースが有る。


独身子無しの俺が子育て論を語ったって説得力なんてあるもんじゃない。


けれど、ネットの世界においてその人物が語る真実は本当に真実なのかという疑問は残る。
就活生を騙る大学生アカウントがもしかしたら40過ぎのおっさんかも知れないし、美貌を誇り夜の生活を赤裸々に暴露する美女アカウントが埼玉のおっさんの可能性は充分過ぎるほどにありうる。


そういったことがわかっているにもかかわらず、ブログのプロフィール欄の情報を信じて、ガキが何言ってんだと憤慨する俺こそが滑稽だ。

そういった書き手の背景に惑わされること無く、記事そのものを評価したいのだけれどなかなか難しいなぁと最近特に思う。