ネットの海の渚にて

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「世界一のクリスマスツリー」は木が可哀想であるというのは違和感がある

ほぼ日が手がけているこのイベントが炎上している。
神戸市の樹齢150年のあすなろを使った「世界一のクリスマスツリーProject」が醜悪すぎると話題に | BUZZAP!(バザップ!)

まあ確かに意識高い系な雰囲気があって、所々鼻につく感じもある。
こういうイベントがなんとなく嫌だなという気持ちになるのは全く不思議でもないし、むしろ私も同感である。

こういうなんとなく嫌だなと感じるものの言語化に、今回の場合は「150年生きた木を切るのは可哀想」的な理由を持ってきている言説が目につく。
あるいはこんなイベントのために150年生きた木を使うのはふさわしくないといった意見も同じように見る。


だがしかしである。
よく考えていただきたいが、イベント会場に運ばれてきた木はどこかの地域で御神木として崇められていたりしたものではない。
林業の生業として育てられた木である。
つまりこの木はいつの日か切られて材にするために150年に渡って育てられてきた木なのである。


私の本家は代々林業を生業にしてきた。
叔父は80歳を目前にして数年前に引退したが、それまでは現役バリバリで林業の最前線にいた人だ。
私も高校生の頃この叔父に半分騙されて夏休みにアルバイトに来いと言われてひょいひょいついていったことがある。
町育ちの高校生には地獄だった。
下草を刈る作業の手伝いをしたのだが、鹿ですら転げ落ちそうな急峻な崖をスイスイと歩いて行く叔父についていくのだが何度も死の恐怖を感じた。
勾配の激しい斜面を一日のうちに何度も上がったり下がったりするのだが、日給1万円のアルバイトという条件にまんまと乗せられて、本来は2週間の約束だったのだが、3日でギブアップして山を降りた。



現在の林業は圧倒的な人手不足だ。
少なくとも私の叔父が所属している組合に若い人はいない。
一番若い人でも50代という超高齢化の波に飲まれている。
原因は過酷な労働であるにも関わらず、給料も安く休みも少なくなおかつ職場が山奥なので休日もなかなか町まで降りてこられない。
そんな状況だから新しい人など入ってくるわけがないのである。

じゃあこの状況を改善できるかというとそれも無理だ。
金が無いからだ。

日本の林業は山奥のそれも急峻な斜面に植林するので、手入れや伐採に機械を導入することが大変難しい。
運搬用の大型車や重機を近くまで入れる為の林道を維持するのですら難しい状況になっている。
今の時代にそぐわないマンパワーに頼りっきりの業種なのである。

そういった背景もあって、山から切り出した木を町に運ぶ為の労力がかかりすぎて商売にならないという現実がある。
だから運び出しやすい土地の木は売られるが、そうではない場所にある山の木は売れないから人手不足も相まって放置されることになる。

そうやってギリギリ採算の取れる場所だけは人間によって手が入るが、奥の山の部分は荒れ放題ということになる。

元来日本の山には楢やブナ、クヌギや栗やクスノキなどの広葉樹が生えていた。
そういった本来の山を整備して、商業的価値の高い杉や檜といった針葉樹を植えていった経緯がある。
これは当時の国策でもある。

人間の都合で山の植生を入れ替えたわけだから、人がその山を手入れし続けていかなければやがてバランスが崩れて崩壊する。
現に私の本家があるところでは既に何年も前に放置された杉林が、大雨の後、山の斜面が流されて崩落したところが何箇所もある。
その場所は、山奥の中でも更に奥にあるところなので、今のところ人の住む場所にまで直接的になにかが起こるということにはなっていないが、これも時間の問題だろうと思う。
なにより数年前に叔父が引退してしまったので、本家の山もいずれ同じ運命をたどるのは容易に予想できるし、その時は本家の母屋も先祖代代の墓も飲まれてしまうだろうという諦めもある。


話を元に戻すが、今回のイベントで運搬されていったあすなろは林業にとっては普通の商売でしかない。
150年生きたところに神秘的な何かを見出すのは勝手だが、そう思うあなたの今住んでいる家や職場や学校の、柱や床材や天井に使われている木材が樹齢何年の木だったのかご存知だろうか。
ちなみにあすなろの場合150年だと材にするにはちょうど良いタイミングでもある。
樹齢150年の木が材木にされるのは特別なことではなく当たり前の現実である。

今回のイベントであすなろの木はいくらで売られていったのかわからないけれど、なかなか商売にならない近年ではまれにみる良い金額で売れたのではないかと勝手に想像する。


確かに人間よりも遥かに長い時間を生きる木に、なんらかの神秘性を感じるのはわかる。
だけれども牛や豚や鶏を育てて肉にするのと同じで、林業は木を育てて売ることを商売にしているわけだ。
商売のために育てた木を何らかの目的で使うことを否定するのは、肉にされる豚が可哀想だからやめてという薄っぺらい感情論と根が同じであるということを再確認したほうがいい。

もう一度書くけれど、例のイベントが鼻持ちならないのは私も同感だ。
けれどそれを批判するために木が可哀想的な感情論を振りかざすのはあまりよろしくないと思っている。