ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

気に入らない表現物を叩き潰す行為はいつの日かきっと呪いに変わる

私はいわゆるドッキリ系の番組が苦手だ。
番組の中で誰かが騙されて恥をかかされたりする場面を見ていると、なぜか私までとてもストレスに感じてしまう。

どうやらこういうことを「共感性羞恥」と呼ぶらしい。
共感性羞恥とは - はてなキーワード
まあ、とにかく私はこの手の番組が苦手なのである。

どうも最近はこういう番組が視聴率が取れるのかそれとも制作費が安いからなのかわからないが結構な頻度で見かける。けれどテレビ局にクレームを入れたり放送を止めろなどと行動を起こしたりなんかしない。ただチャンネルを替えるだけだ。


何かの表現に対してそれをやめさせようとする活動を見聞きすることがある。
例えば最近の例だとふともも展の騒動があった。
togetter.com

上記の案件についてどうこう議論するつもりは全く無い。
私が考えたいと思っているのは何らかの表現を規制するためにあなたが生み出したそのロジックは、いつの日かあなたが好む表現を好ましく思わない人によって同じようにそのロジックを用いて規制されるということだ。




私はドッキリ番組が苦手だと書いた。
例えば私がそういう番組を絶対に許さない、どうしても中止に追い込みたいと思ったのなら「私はドッキリが嫌いだから放送をやめろ」とは言わない。
これでは単なる個人の我儘でしか無く誰も味方になってくれないからだ。
ならば私の個人的な気持ちではなくもっと大きな問題に転換してやればいい。

例えば「ドッキリというのは嘘によって不当に人を陥れることで尊厳や人権を傷つけている」だとか、「テレビ局対タレントという権力勾配によって弱者側であるタレントは仕事を断れずドッキリという不当な扱いをされても声を上げることすら許されず強者によって蹂躙されている」といった具合に、問題を大きくしてやればいい。
元々は私の個人的な好き嫌いから端を発しているのだが、思いきり大きな話にしてしまえば大抵の反論は弾き返すことができる。
なぜなら「人権侵害」「権力勾配」というそれっぽい文言を入れておけば過去に同じようなロジックを使ったものが前例としてあるわけで、論の詰めが甘くても前例を掲げたり賛同者さえ集めて騒ぎを大きくしてしまえば多少強引でも多分いけてしまう。


そうやって自分の気に入らないものを排除できたらその時は戦勝気分で気持ちが良いだろうと思う。
勝利の快感に酔って次から次に敵を発見しては撃破していく正義の戦士になるかもしれない。
しかしそういうことを続けていけば、いつの日か自分の好きだった表現物が誰かによって全く同じ武器を使って叩き潰されることが起きるかもしれない。
そうなった時に後悔してももう遅い。
同じ武器を同じロジックで使用しているのだからそれをダメだとは言えない。過去に自分が叩き潰したものが呪いのように追いかけてくるからだ。

表現物というのは100人いたら100人全員が好きになるというものではない。
尖った表現であればあるほど激しく忌避されたり嫌悪される場合もある。

そういったものに対面した時に目を瞑り受忍し通り過ぎるのか、それともそれを晒し上げて抗議するのか。
ネットというものがそれなりに力を持ち、現実に影響を与えるようになって久しいわけで、そういった力を無闇に使うことがこの先どう影響するのかということまで意識しないと、いつの日かきっとそれが自分の首を絞める呪いになると私は考えている。