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ネットの海の渚にて

私の好きなものを紹介したり日々のあれやこれやを書いたりします

私の思うミニマリストとは

ミニマリストには定義がないらしいという話はこのブログで何回も繰り返してきた。
そういう言葉だから、あやふやでイメージ先行型の、一過性の流行りものとして消費されてしまう未来が想像できる。


ミニマリストと名乗っている人達が、各々勝手にライフスタイルを展開しているから、そのイメージも右往左往して、はてなでよく目にするようになってからかなりの月日が経過しているのに、未だに輪郭さえよくわからない。

そういう定義のない状態で、様々な階層の人達がミニマリストを名乗ると、あらぬ方向でイメージが決定してしまわないか危惧していると、この記事で書いた。dobonkai.hatenablog.com

この記事を読んで私がミニマリスト界隈に対して煽っているとか、Disっていると決めつけてレッテルを張ってくるブロガーもいた。
それについて抗議したものの、結局私の真意を理解されないようなのでもうあきらめた。


もう一度だけ言うが、私はミニマリストという思想に興味があるし、その界隈の人たちに定義を作った方がいいと提言しているだけで、煽る意図もましてやDisっているわけでは決して無い。



私の考えるミニマリストとは

ミニマリストを名乗っている方たちの共通点としては【余分なモノを持たない】というところだろう。
この点についてはおそらく共有できるはずだ。

なかにはトランクひとつに全てが収まるのがミニマリストという人もいるが、その加減は定量化するのは難しい。
それに一般人の生活の延長線上で出来る範囲とするなら、トランクひとつは現実的ではない。

このような生活ができる人は限られているし、むしろそういう生活をしているからこそトランクひとつに荷物をまとめる必然性があってそうしてるケースのほうが多い。

いわゆるバックパッカーがこういう人種だ。

定住する家を持たずに移動を常とするからモノを最小限にする必要性がある。
つまり放浪の旅をやりやすくするためにモノをそぎ落としていったら、結果としてミニマリスト然となっていたということだ。

私が考えているミニマリストは必要に迫られてモノを減らすわけではない。
今の生活をよりよいものにするためにモノを減らすのだ。

移動が便利になるためにとか、金銭的に節約するためにモノを減らすのではなくて、より豊かな生活と幸福を追求するためにいらないモノを捨て、自分がときめく最小限のモノに絞っていくライフスタイルがミニマリストであると考えている。


「無駄を削ぐ」というのは出費を抑えるという意味に取られがちだが実際は真逆だ。
前回の記事でも書いたが、何年も使い続ける事ができる良いモノは高価なものになる。
おそらく100均では手に入らない。


「侘び寂び」という思想がある。
これは引き算の妙だ。
何かを足していって華美なものに仕上げていくのではなく、いらないものをそぎ落としていった結果として残った部分に本質がある。
それは元々本物にしか存在しないので、まがい物は装飾物を排除していったら簡単にメッキが剥がれる。

ミニマリストという思想はそういうことなのだと思う。
必要以上に華美に飾られてしまった現在の生活を見なおして、無駄をそぎ落として本質を探る。
その道の先に、質素ではあるがモノに縛られず、精神的に豊かで幸せな生活があるのではないか。
それを探ることがミニマリストであると私は考えている。
決して節約生活が目的ではない。

足るを知る

老子の言葉にこういうものがある。
「足るを知る者は富む」

産業革命以降、大量生産大量消費こそが正義という時代が長く続いた。
この経済的発展は確かに一時代の栄華を誇ったけれど、これがこのまま永遠に続けられるわけじゃないことに皆が気付き始めた。

そんな中から、循環型社会という考え方が出てきたわけで、ミニマルなあるいはシンプルな生活というのは、おそらくこういった系譜に属しているのだと思う。
消費して使い捨てるという刹那的な生活に疑問を感じて、多くのものは持たないが、素敵で心躍るモノを大切に長く使うというのがミニマリストの目指すところだと私は提案したい。


高度成長期には、モノを買い所有することが「幸せ」であり「成功の証」だった。
経済的にも頭打ち感のあるこの国において、物欲と所有欲を満たすことの虚しさみたいなものが露呈してきた部分は間違いなくある。
そういう今までの価値観に感じるモヤモヤの受け皿として、ミニマリストという言葉がピタりとハマったのだと思う。


「足るを知る者は富む」という言葉こそ、私のイメージしているミニマリストなのだ。

足るを知ることできっと心は豊かになる。